一番大切なものは心
昭和五十四年 三月 二日 朝の御理解
御理解第四十五節 「世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実ほどかがむ。人間は身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ」
確かに、油断禁物、油断大敵と言うふうに申しますが、人間の心の中に、まあ慢心と「
※ カサケ」のないものはないと言われる位に、私共の中にはそうした慢心とか、いわゆる思い上がりの心が自分でも気が付いてない中に、それこそ繁雄さんところのお父さんじゃないけれどもいつか椛目に参ってきて「もう先生、畑の中の草ち言うばっかりはもう手入れをせんでんはびこる」と言う意味のことを言われましたが、私共の心の中にはね、もう心がけておっても心の雑草がはびこる。いわゆる慢心、思い上がり ね。
真心とか愛の心とか慈悲の心とか申します。そういう尊い心というものは、もう本当に心がけておっても心がけておっても、なかなかよう育ちません。だから本気で育てようという気がなからな育たんです。育ったかと思うと枯れる。確かに信心させて頂くと、それこそ信心によらなければ頂けない、こんな有難いその道があったんだという事がわかるんですけどね、その喜びの芽があっというまに摘みにじられたり、踏みにじられたりするのでございます。
昨日の月次祭、この前の一日のお月次祭が、二千四百八十ですかね。二千五百からのお届けがあっとります。昨日は二千六百七十八名のお届けがあっとります。後からまた参った方がありますから言うなら八名じゃなくて八十名ということになりますね。やはり年々歳々と言うか月次祭毎にこうやって合楽のご比礼というものは、輝く一方である。二千六百七十八名と言うおかげを頂いた。
私は、今朝からこの御用日誌に一日のことをいろいろ記録されます、それを見せて頂いて、その数のところを一番にいつも見るんですけれども、あ々おかげ頂いたなあと。昨日は朝からとにかく賑うとった、お広前いっぱい。と私はそう思ったら、途端に神様が『スコ-ル』という事を頂いたんです。スコ-ルと言うのは、確か南方でね、ザ-ッと降るおしめりの事でしょう。高橋さん。「高橋さん、スコ-ルと言うのはそういう意味でしょう、夕立の」 夕立みたいな、だからお前は、「ほう、沢山お参りがあったなあと思っておるけれども、あれはスコ-ルだよ、と。スコ-ルでもやはり一日の暑い中に夕立やらありますと、清々しくなったり涼しくなったり致しますからね。南米の暑いところでは、やっぱりそれがあるわけですけれどもね、それを本当のおかげとも思うなよと。
毎日毎日がそういうおかげを頂いとるならいざ知らずですけれども、只月次祭の時だけお参りが多いと言うのは、あれはスコ-ルと同じ事だよと、神様が・・・もうハッと思いますね。そして今日の御理解を頂いて、「世に三宝様を踏むな、三宝様」という事は、私は、言うなら大切なもの、特にこれは信心ですから、信心させて頂いて一番大切なものは何か ね。
言うならば、私は心だと思うんです。その心が思い上がったり、言うなら神様の心に適はない心であってはならない、その心というものは、もう大切にした上にも大切にしないと、すぐ乱れたり、汚れたり、かき曇ってしまうということでございます。
信心とは結局、生神を目指すという精進なんです。その精進に私共はかけるんですね。だからいつも私はここんところの四十五節というところを、もういつもが真ん中だと。
教祖様のお言葉の中には、「今中」という言葉があるそうですね、今が真ん中と。
どんなにおかげを頂いておっても、今がまだ真ん中だと、どんなに難儀な中にあってもね、今中だと言うような頂き方こそ大事でありますからね、どんな時であっても、悲観落胆することはない。どんなにおかげを頂いても、慢心が出ることがないような心の状態を、私は四十五節だと思う ね。ところがいつも、もう本当にうかつにうかつに取り外してしまっておるという事でございますよね。私共の信心させて頂いて分からせて頂く事は、言うなら大切な事がいろいろ沢山にございます。先日から頂きますように私共の心から、憎い・可愛い・惜しい・欲しいを取り外すと、おかげが受けられる、お徳が受けられるとありますね。だから同じ憎いでもですね、素晴らしいなぁと言うほめ言葉もありますよね。あんまり例えば素晴らしく出来ますと、「憎いね」と言いますでしょうが。あれは憎たらしい、という意味じゃないんですね。また本当、あん奴ばっかりは面見苦しかと言うのがありましょうが、あれが憎いのですね。その憎いのが段々高じて参りますとですね、それこそ殺人と言ったようなことになったり恐ろしい結果になってくるのです、憎いと言う。
可愛いと言うのでもです、「可愛いと思う心が、神心」とおっしゃるから、可愛いでさえあればよい、と言うのではないのですね。その可愛いを取るとおかげが受けられるとおっしゃるのですから、ここをやっぱり検討しなければいけないのですね。だから自分が可愛いと思っておる可愛いは、果たして神様のお心に適う可愛いか。只いうなら、我がもの宝、もう自分のもの、言うなら家の孫だけは可愛ゆうてたまらん、よその子供はなら可愛くない。それこそ目の中に入れても痛くない程可愛いと言う、これは神の気感に適わんのですね。
だからこの辺のところをです、やはり私共が調節を取るような心、段々おかげを頂いておると、人の子もなからなければ自分の子もない。そういう精進がいるです。人間じゃけん自分の子が可愛いと言うのは当り前という事になるでしょうが、ね。
愛欲にからまるところの可愛いというのも、やっぱり神様の気感に適わん。
昔、私が御本部月参りを、親先生のお供をさせて頂いている時分でしたが、まだ椛目の愛子がヨチヨチ歩きぐらい、丁度池尻の泰子と双子のようにしておりました。そして本部から帰らせて頂いたら、丁度二人の子供が二人一緒にお縁のところへ、「お父ちゃま」とその二人とも「お父ちゃまお父ちゃま」といってましたから。「お父ちゃま」と言うてやって来たんです。一緒に並んでやって来たんです。あれはね、先に来た方を抱こうということもありますけれども、一緒に来たから咄嗟にどちらを先に抱こうかと、こう思うたです。やっぱり自分の子供に先に手が出るです。その時に私はその心を押さえて泰子の方を抱きました。私は一つの例として、いつもこの話を皆さんに聞いて頂くんですけども、そういう精進がいるのじゃないでしょうかね。やはり一緒にこう並んで来た。
四神様のお言葉の中にも、自分の子と人の子が一緒に転んだとする、そういう時にはどちらを先に起こしたが本当でしょうか、と四神様にお伺いした信者に対しておっしゃっておられるのはね、『人の子を先に起こす気になれば、その方の子は神がおこしてやる』とおっしゃったそうです、ね。
だから同じ可愛いという神心は、大切ですから、その神心、「可愛いと思う心が神心」と言う心を育てていくのですけども、同じ可愛いでも検討してまいりませんと、眼の中に入れても痛くないといったような可愛い心がどんどん増長してまいりますと、神の気感に適わぬ。憎い・可愛い・惜しい・欲しいをとこう言う。惜しいでも、欲しいでもそうです。いや無欲淡々と言うてもですね、惜しい、または欲しいと思う心が神様の気感に適う心がある。神様が喜んでくださるような、言うなら惜しいがある。その辺のところのいわば使い分けと言うか、頂き分けというものがです、大事なんです。
昨日、いつも四時半の御祈念を終わって、月次祭の日は必ずこちら(左のほう)からでるのですけども、そちら(右の方)から出るのです。で、そちらにスリッパが回してある。と言うのは神饌が出来ておりますら一通り見てくれと言うわけなんです。それで私は神饌室を一遍通り、お粗末御無礼がないようにと思って一遍下見を致します。どうも野菜の盛り付けが私の気に入らんのです。そりゃ高級な野菜ばっかりいっぱい盛ってあるにもかかわらず、もう久富先生が他の者に扱かわせんごとして自分がなさるんです。これはどうでもと。それから一応退いとったけれどもどうもそれがひっかかるから、久富先生は私のすぐ後ろについて見えますもん、お風呂はいらなならんから、それであれは若い人達、稽古に盛り直させようと私は一言いいながら、そのだから久富先生にもそれが聞こえておるわけ、一寸私、久富先生を見たら淋しい顔に見えたんです。もう私の御用は、足はあんなふうですから手だけがまだ力も強いし出来るんだ。だから神饌は私が一手にと。こりゃあ宅祭りなんかという時には必ず先生が行かれる。もう自分の御用のごと思うておられる。それも言うならば二、三人の先生方がお手伝いはしておるけれども、やはり自分が芯になってなさる ね。けれども次の瞬間にですね、その淋しいというあの「どうぞ盛り直して下さい」と言わんばかりの表情になったから、私神饌室に行ってみて、あれは一つ盛り直しなさい、盛り替えなさい。ここには器用な先生がおりますからね。もうそりゃあもう見事にまた盛り直しておりました。そういうような時でもね、例えばあの顔色が変わるムカッとするとかね。もうこれは心を大切にしとかなきゃでけん。けれども私は思いましたが、さすがに久富先生だなあと思いましたね。言うならば自分のまあ弟子のごたる何人もの若い先生がおるのに、言うなら師匠が盛ったつを親先生が盛り直せ、とこう。言うならばね若い人達に対してもちょっとバツが悪いごたる感じがする。こうせにゃいかんばい、あ々せないかんばいと教えておる者が、盛り替えさせられる。けども次の瞬間にはもう何でもない、というふうを見せて、また実際何でもなかったですけれども、あれがいつまでも一時間も二時間も残るごたるならば、どんこんでけんですけれどもね。
お互いの場合どうでしょうかね。同じような事が言えるのです。もういかに心を本気で大切にしよらんと、それがもう淡々として言うならば神様の心に適う生き方と言うものができるのです。
電気一つでも大切なものですね。ですからもう本当に徹底して電気を私は大切にします。お水を大切にします。かと言うてです、大切なものでもです、今度はいよいよ言うならば必要な時にはです、それこそ万艦色のように全館いっぱいに電気をつけさせて頂くということが、それを使うて喜ばせて頂くということが、言うならば大切にすることになるのです。だから同じ電気、同じ水を大切にするでもね、使い分けがいるのです。
沢山使うという事が大切にすることもありゃぁね、それこそ線香のような小さな火でもお粗末にしないという大切にする生き方とがあるですから、その辺の、これはもう一時が万事にそうなんです。
今日は私はね、「世に三宝様踏むな・・・」後のこの全部の長い今日の御理解ですけれども、この「世に三宝様踏むな」言うならば大切なものをおろそかにするな、大切なものをおろそかにすると眼がつぶれると言おうがといわれるように、私共は信心の眼を開こうとしよっても、また思うておってもですね、神様の大切なものを大切な事柄をお粗末にするような事であっては、決して、言うならば「信心するものは肉眼をおいて心眼を開け」とおっしゃるが、心眼が開けるというようなことはないと思うね。心眼を開かせて頂こうと思うたらね、いつも自分の心を中心に、心ほど大切なものはない、心一つですべてを創るのであるし、心一つですべてをまたこわしてしまう程しのものなのですからね。大事にしなければならない。もうどんなに大事にしても大事にしても、うかつにしておることがいっぱいなんです。慢心が出るとおかげを取り外すとおっしゃるのにね、例えば、はぁ昨日はお参りが多かったなぁ、ともう心の中に慢心めいたものがね、毎月毎月参拝者が増えるということはありがたい事だなあと言うてお礼を申し上げる心ではなくて、只慢心げに神様には聞こえたからこそね、あれは『スコ-ル』だとおっしやった、本当にその通りである、ね。
日々がそのような、いやもっと賑わうようなお広前としてのおかげ、人が助かることのためのお広前としてのおかげを頂くためには、いよいよもって心を豊かに太く、同時にその大きな豊かな心をまたとりわけ大切にしなければならないという事がわかります。
自分では慢心ではないと思うておることの中に、慢心がひそんでいると言うてなかなか憎い可愛いと言うだけでもね、ここは、言うならば憎いという心が神様の心に適うという事もあればね、もう金輪際その心だけは神様が受け付けんと言われるような心もある。
可愛いいでも同じことだと言うような事を今日は聞いて頂きましたね。
「どうぞ」